長太郎焼の由来
初代有山長太郎は島津家の御庭焼の画匠郡山静遊庵先生を師従して御庭焼に勤めていましたが
陶画を専攻しました長太郎は自ら思う存分造ったり焼いたりしてみたいと一念発起御庭焼を辞して
修行のため上洛し成形焼成等に付いて研究しました。
明治31年帰って鹿児島市外谷山村清見橋下流の小松原の中に小屋と窯を築き方々から土や石を
集めては造ったり焼いたり、赤貧洗うが如き中に苦節20有余年土と火と斗い続けました。
艱苦欠乏の中にも窯を開けては渾然と融合したその自然的窯変の妙味は、
叢雲の如く涛の如く人為的加工美の遠く及ばざる幽玄さにただただ一人満悦にひたっていました。
大正の初期画聖黒田清輝先生及び吉井友兄氏等に認められ、一層鞭撻指導を受け遂に「一流を為す」
とあって長太郎焼と命名され、仝九年登録いたしました。これ抑も長太郎焼の濫觴であります。
その後天覧台覧並に献上品作成等の光栄に浴する事数回拡く天下に名声を博するに至りましたが、
初代長太郎は昭和15年秋69齢にして他界、渋い伝統の中に斬新的芸術味と高雅な作風は単に
愛陶家のみならず現代人の嗜好に適し、現在は谷山の本窯を四代長佑が継承しました。
又指宿にこの地方に埋蔵する無尽蔵なる且優良な、土石の研究に精進しつつ制作しております。
何卒近代の作品に付いても御清覧御愛玩の程を。
謹白